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2000年 6月某日

ヴィエトナムだより  小野澤雅人


 ヴィエトナムには強烈なイメージを持っている。テレビっ子だった私は、ヴィエトナム戦争当時のニュースを通じて、逃げまどう避難民や破壊される町並みに対する印象が記憶の奥底に強く刷り込まれている。中学生のころ、平和運動に力を注いでいた社会科の先生が、パリ和平会議におけるヴィエトナム和平協定締結の歴史的意義について、涙を流しながら授業をしていた姿が思い出される。下校途中の救急病院に米陸軍兵数名が血を流しながらかつぎ込まれていくのを目撃したこともあった。きっとそいつらは渋谷で大乱闘でもしたのだろう。(私は渋谷の繁華街にある中学に通っていた。)

 その後のサイゴン陥落、インドシナ難民の大量流出、中国との戦争、カンボジアに対する侵略など、テレビの画面が報じるインドシナの紛争のイメージと結びつけてヴィエトナムに対して複雑な感情を抱き続けている。おまけに今回の出張はちょうどメモリアルデイ(戦没者記念日:アメリカの休日)の週末から始まっており、いやが上にもこの国と平和の意味を考えさせられる。(私はワシントンDC在住時、アーリントン国立墓地の近くに住んでいたので、メモリアルデイはいろいろな意味で印象深い休日の一つなのである。)

 そんな強烈な印象を与えたアメリカとの戦争さえも、終戦からすでに25年を経過している。少なくともハノイの町のなかで戦争の痕跡を探すことはきわめて難しい。唯一それらしいものと言えば、空路ハノイに入るとき、空港の周りの、田んぼの中に不自然な円形の区画が点々としているのが上空から見えて、それが米軍の落とした爆弾の痕跡らしいとわかることぐらいでなのである。

ワークショップを開いて、プロジェクト目標、実施方法、管理などを現地関係者と協議する。

 この国の「自由化」に対する取り組みは、とんでもないスピードで進んでいるみたいだ。今のハノイの印象は、香港が1980年代半ば、まだイギリス領で一番元気が有ったときの下町(例えば九龍サイドの油麻地)にも似ている。

 町を走る車は磨かれていて新しいし、「移動手段としての機能」より、「乗る者のステータスを表す道具としての機能」のほうが卓越している(この辺が大変アジアっぽい)。「移動手段」は圧倒的にモーターバイクが使われていて、これもみな新しい。

 女性は派手とは言えないが、美しく着飾っているし、市場には世界中の商品があふれている。若者文化の面でも間違いなくアメリカ化が進みつつある。街角には、はやりのインターネットカフェが建ち並び、若者がネットサーフィンを楽しんでいる。そのコンピュータは、英語版のOSが載っていて、彼らが見ているページもそのほとんどが、Yahooをはじめ、英語のサイトである。例によって、海賊版(!)のCDが市場の店頭の一番いい場所に飾ってある。

 ヴィエトナムは地球上に残った数少ない共産主義国家の一つなので、身構えて出張してきた。けれども「どこに共産党がいるの?」といったように、不思議と「Big Brother」の気配の感じられないことにもとまどっている。(西側でも、国の英雄の肖像を町中に飾り立てることの好きな国があるじゃない?) 故ホーチミン主席の肖像画を町の中で見ることはほとんどないのに、SonyMicrosoftIBMの看板はどこにでもある。

 米ドルは現地通貨のドンと同じレベルで流通していて、町の市場でも交換レートさえ気にしなければお釣りまでドルでもらえる。経済解放によって、あっという間にドル経済圏に飲み込まれてしまったように感じられるのである。

 それらを経済の自由化の結果として捉えると、アメリカは「地域戦略」としてのヴィエトナム戦争には勝てなかったけれども、「世界戦略」としての共産主義の囲い込みには大勝利を収めたのかもしれない。

 開発プランナーとしての仕事をしてきた私は、これまで統計上の数字に気を付けるようにトレーニングされている。一方で、文化や組織を枠組みとしながら都市・地域を見ることも重要な分析の手法であると信じている。町並みや看板を記号として捉えると、統計や政策を見るのと同じように「記号」に隠された意味を知ることができるのである。


後記:合意形成ワークショップ(上写真)について

今回、参加型計画手法(Project Cycle Management/PCM)を取り入れた合意形成ワークショップを現地で実施した。開発プロジェクトの推進には、援助する側と受ける側の、誤解のない合意が大前提となる。ヴィエトナムでも、他の東アジアの農耕社会と同様、村落共同体的に合意に至ると聞いていた。つまり、いろいろ意見はあっても、最後には年かさの有力者の一声で決まってしまう、ということである。そこで、会議を開くと年長者の意見、見解が年の若い者よりも重要視され、若手に発言の機会が与えられることが少ないのでは、などとひそかに心配していたのだ。ところが、いざワークショップを始めると、むしろ若い人達の積極的な意見の発言に圧倒される思いで、心配していたような長幼の区別に過度に気を遣う討議の場とはならなかった。若手の活発さは、むしろ日本よりも顕著な印象だった。


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